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きよろりとした眼でしきりと家の中をのぞきこみながら、しばらくして
ときは房一を見ると、殆どすがりつきさうになつた。そして、口をひきつらせ、上半身を揉むやうにして訴へかけた。
二階の部屋だつたので、障子を開けてみたが、空はどこも真暗らで所々にうすく星が光つていた。その静かな黒い拡がりがかへつて不気味だつた。すぐ下の通りではどの家も表の戸を開け放つたまゝ道路に出ていたので、屋内からの明りが方々から路面に流れ、立つて空を見上げている人達の半身を照していた。黒い人頭がざわざわと右に行き左に行きしていた。所々の家の切れたあたりは驚くほど暗かつた。鐘はまだ鳴つていた。それは今、さうはげしくはなかつた。だが、冴えてはつきりと、一所だけで鳴つていた。多分、左手のずつと先きあたりらしかつた。
房一は感動した。あの一言で、何もかも身のまはりが今までとちがつたやうに感じられた。何か一つ微妙なものがこの世のどこかでひよつこりと生れかゝつているのだつた。まだ目には見えないその隠れた、だがすでに在ることだけは確かな存在が、それだけでこんなにまはりの物を変へてしまつたのだ。それはひよつこりとしている、同時に彼にも盛子にもつながりのある不思議な或る物だつた。彼は職業柄アルコール漬になつた月別の胎児はいやといふほど見て知つていた。が、今彼の感知しているものはそれとは似ても似つかないものだつた。それはむくむくして、今はぢつとしているが、やがて動き出さうとし、やがて手をひろげ、やがて彼の肩だの腕だのにすがりつかうとしている、温い、柔い、――
「うん」
そんな具合だから空室になつた分家の方も閉めて置くより他はなかつた。鍵屋の方はまだしも湿めつぽい匂ひがあるが、この分家は人気ひとけが去るのといつしよに家そのものの気さへ抜けてしまつて、乾いて、たゞ昔の恰好のまゝで立つているだけであつた。まさか、よそから流れこんで来た八百屋や指物師などに貸すわけにはいかない。ところが、全く打つてつけの借り手ができた。それは「医師高間房一」だつた。医者に貸すのだつたら、別に家の品を落すことはないわけだ。
恐らく、房一も他の場合にはこれと似たりよつたりの動作をやるにちがひない、たゞ道平に向ふとこんなに易々とできないのだ。
しかし向かいの百姓家はそれにひきかえなんとなしに陰気臭い。それは東京へ出て苦学していたその家の二男が最近骨になって帰って来たからである。その青年は新聞配達夫をしていた。風邪で死んだというが肺結核だったらしい。こんな奇麗な前庭を持っている、そのうえ堂々とした筧かけひの水溜りさえある立派な家の伜せがれが、何故また新聞の配達夫というようなひどい労働へはいって行ったのだろう。なんと楽しげな生活がこの溪間にはあるではないか。森林の伐採。杉苗の植付。夏の蔓切。枯萱を刈って山を焼く。春になると蕨わらび。蕗ふきの薹とう。夏になると溪を鮎がのぼって来る。彼らはいちはやく水中眼鏡と鉤針を用意する。瀬や淵へ潜り込む。あがって来るときは口のなかへ一ぴき、手に一ぴき、針に一ぴき!そんな溪の水で冷え切った身体は岩間の温泉で温める。馬にさえ「馬の温泉」というものがある。田植で泥塗れになった動物がピカピカに光って街道を帰ってゆく。それからまた晩秋の自然薯じねんじょ掘り。夕方山から土に塗れて帰って来る彼らを見るがよい。背に二貫三貫の自然薯じねんじょを背負っている。杖にしている木の枝には赤裸に皮を剥はがれた蝮まむしが縛りつけられている。食うのだ。彼らはまた朝早くから四里も五里も山の中の山葵沢わさびざわへ出掛けて行く。楢ならや櫟くぬぎを切り仆たおして椎茸のぼた木を作る。山葵や椎茸にはどんな水や空気や光線が必要か彼らよりよく知っているものはないのだ。
「ね、君」
「はゝ、知つているな。よし、よし何もいやしない」
「はあ――ふむ、うちへもかね」
根津はだまって答えなかった。その翌日、彼は城外で戦死した。
「あんたも、おめでたいさうで」