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「それあ、あんた」
「はい」
「もう遅いんですよ、おぢいさん。泊つてつたらどうです」
「うん、寄りがあるからな、あんたはうちに帰つとんなさい」
「よし、それでは預つとかう」
「ふむ」
「えゝ、まだですが――何か御用?」
「それあきまつてる、猟銃だもの」
「しかしお松の生んだ子はほんとうに半之丞の子だったんですか?」
声をひそめて、富田が訊いた。
病症は大体察していた通りの単純な乾性肋膜炎であつた。熱の工合を見ても進行性ではないし、他の部分にも異状はなかつた。だが、房一は念入りに診察した。この病気は念入りに診察するだけで患者にとつてもはたの者にとつても少なからぬ気休めになるものだといふことを承知していたからである。そして、今まで医者にかゝらずにいたわけはない筈だから、多分大石練吉に診てもらつていたにちがひないが、いつ診ても目立つて変化のないこの病気は医者にとつてもかなり退屈なものだし、あの練吉が終ひにはいゝ加減で切上げるやうになつて、患者側の不興を招いたとも想像された。だが房一はそんなことには一切触れなかつた。彼はたゞ綿密に診察を終へ、二三の注意を与へ、更に一週間に一回の割で今後も往診に出向くことを約した。多少意外に感じたのは、一人息子がこの種の病気になつた場合の大抵の父親は、ひどく神経質になつて病状を根掘り葉掘り訊くものだが、相沢は房一が説明する以上のことは知らうともしないことであつた、だが、発病以来すでに幾人もの医者にかゝつたのは明かで、誰が診ても同じやうな症状を聞かされて、今では慣れつこになつているのだらう、と思はれた。
対島つしま沖で日露海戦が行はれ、敗残艦の一部が日本海沿岸のこの地方の沖合までのがれて来て沈没したのは十年ほど前のことである。乗員は白旗を掲げてボートに分乗し、沿岸の砂浜に着いた。その前、海戦の最中には海岸附近の人家の障子が断続的にとゞろく砲声で鈍く不気味に響きつゞけた。もとより海戦が行はれていると知るわけもないので、たゞ漠然と不安だつたが、その気分の抜け切らないうちに、たとへ白旗を掲げているとは云へ突然現れたロシア兵達の姿に、海岸の住民は一時かなりびつくりしたものである。間もなく近くの兵営から軍隊が駆けつけて、それ等の投降兵を吉賀町附近の寺院に一時的に収容した。彼等がそこにいる間、附近の人達は毎日弁当持ちに草鞋わらぢばきで押すな押すなで見物に出掛けた。その当時、徳次は二十前の若者だつた。
盛子は時々半ば無意識に呟いた。